第1回
「戦場か、極楽か ── 宇治のものがたり」
⼤河ドラマ「鎌倉殿の13⼈」に描かれる時代を京都に探し、
激動期の⼈間模様と史跡をご紹介します。
第 1 回 「戦場か、極楽か宇治のものがたり」
眠りこける皇子
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時が生まれた長寛元年(1163)。
都では平清盛を中心とする平家が大きな存在となりつつあったものの、
伊豆の小さな在地領主・北条時政(ほうじょうときまさ)の
次男であった義時にとって、平家とは遠い土地の、遠い存在のはずだった。
ところが時政の領地には、平治の乱で討たれた源義朝(みなもとのよしとも)の子・源頼朝がいた。
当時14歳だった彼に生きることを許し、伊豆に流したのは平清盛。
遠いようで近い、平家は義時にとってそんな存在だったのかもしれない。
北条時政は娘の政子を頼朝の妻にすえ、固い絆を結んでいた。
そのため、頼朝のもとに平家追討を命じる「以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)」が届いて挙兵を決意したとき、時政はわずか50ほどの兵を引き連れて従っている。
その中に、18歳の義時もいた。
頼朝の挙兵は「よっしゃ、おごり高ぶった平家をみんなで滅ぼそう!」という短絡的な理由ではなかった。
平家が朝廷でおごり高ぶろうと、あまり伊豆では関係ない。
ただ、平家が「以仁王の令旨」を受け取った全国の源氏の討伐を計画している、という情報を耳にしたための挙兵だった。つまり、防御のための攻勢。
「平家を滅し、あなたさまが皇位におつきになるべきです」以仁王にそうささやいたのは老将・源頼政(みなもとのよりまさ)。
以仁王は後白河法皇の第二皇子であったものの即位はかなわず、文芸や音楽に日々を送りながら30歳になっていた。
頼政の言葉にのった以仁王は、さっそく諸国の源氏と大寺院に平家追討の令旨を伝える使者を出したものの、
具体的に動き出す前に早くも企てが清盛の耳に入ってしまった。
『平家物語』に描かれる以仁王は大胆な決断をしたのにも関わらず、すこしぼんやりしたところがあって、
平家に討伐計画がばれたと知ったときも「どうしよう」とオロオロし、言われるがままに女房装束を来て髪を長く垂らして女性に変装し、
それなのにヒョイと溝を飛び越えて怪しまれたり。
賀茂川を越え、東山を越え、三井寺(みいでら・園城寺)へひたひたと逃げてゆく。
夜を通して慣れない山路を進むため、砂を赤く染めるほど足からは血が吹き出していた。
三井寺は以仁王を受け入れるものの、平家追討に加担するべきか、詮議は遅々として進まない。
不安になった以仁王は、援軍要請に承諾してこちらに向かっているはずの興福寺と合流するため、
頼政の兵千騎とともに奈良へ向かった。
三井寺と宇治までの道のりは約12キロ、その間で以仁王は眠りこけて6度も落馬したという。
緊迫した情勢の中で、前夜は一睡もできていなかった。 もう、宮を休ませなければ──。
しかし背後から平家の軍勢が追いかけてきた。目の前にはごうごうと流れうずまく宇治川。
そこで敵の足を止めるために宇治橋の橋板を三間ほど引き剥がし、以仁王を平等院へといざなった。
しばしここでゆっくりお休みください、と。しかし、戦は始まる。
ここは戦場か、極楽か
古くから京と大和の往来する足をぴたりと止めてきた、急流の宇治川。
琵琶湖の唯一の出口である瀬田川がこのあたりで名前を変えたもので、流量が多く、
今は干拓で姿を消した「巨椋池(おぐらいけ)」に一気に注ぎこんでいた。
交通の要衝地として栄え、そのため幾度となく戦場となっており、
もっとも古い戦の記録は『日本書紀』『古事記』いずれにも記される応神天皇の後継争い。
紀によれば、応神天皇の亡きあと菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が皇位に就くはずが、
異母兄の大山守命(おおやまもりのみこと)が稚郎子を殺して自ら大王の座に就こうと企み、
稚郎子の本拠地である宇治に攻め入ろうとした。
それに気づいたもう一人の異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が
稚郎子に備えるように告げると、稚郎子は船頭に変装し、
宇治川を渡ろうとする大山守命を船に乗せた。
そして川の真ん中あたりでグラリと船を傾け、
大山守命をドボンと落した。
あっという間に大山守命は宇治川の水泡に飲み込まれ、
稚郎子はあっけなく勝利を手にする。
ところが稚郎子は恩人の大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとし、
大鷦鷯尊も稚郎子が就くべきとして譲らない。そのため長く皇位は空いたままになり、
ついに稚郎子は自ら死を選んで兄に即位させたという。
この兄弟の「美談」は人々の胸を打った。現在の宇治川左岸にある宇治神社は
菟道稚郎子の桐原日桁宮(きりはらのひけたのみや)の跡と言われ、稚郎子は祭神として今なお篤く祀られている。
そのすぐ背後の宇治上神社も元は一体で、平安後期に建立された社殿は現存最古の神社建築として国宝に指定され、ユネスコ世界文化遺産にも登録されている。
宇治上神社が建てられた平安時代、宇治はその水景の美しさから一大リゾート地となっていた。
都の貴族たちの別荘が続々と営まれ、初瀬詣で(長谷寺への参詣)などで奈良と往来するときは、だれもがここで足を止めた。
低い山並みをぬって流れくる宇治川に、吐息のような朝霧のたつ幽邃の地。
今も行われている鵜飼いは貴族たちにもすでに鑑賞されていた。
『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)も初瀬詣での帰りに夫の兼家の別荘とおぼしき「宇治の院」に立ち寄り、遊興の1日を送ったのちは「頭痛がふっとんだわ」と記している。
長徳4年(998)、時の権力者であった藤原道長も宇治川沿いの別荘を手に入れた。
左大臣・源融(みなもとのとおる)や宇多天皇も所有していた由緒ある別荘であり、
十分に贅を尽くしたものであったにちがいない。
道長からこの別荘を引き継いだ藤原頼通(ふじわらのよりみち)が「平等院」という寺院に改めたのは、宇治の風土が俗塵を洗い流す聖地として愛されていたこと、そしてもう一つ、切実な事情があった。
仏教の世界観では、釈迦の教えが正しく伝えられる正法(しょうぼう)の時代が終わると、
教えと修行者が存続する像法(ぞうぼう)の時代が続き、その次に仏法が衰退する末法の時代が訪れるという。
日本では永承7年(1052)から末法(まっぽう)の世に入ったと信じられていたため、人々はどう仏に向かい、どう生きるか深く考えることになる。そこで阿弥陀仏のおわす極楽浄土へ導かれることを願う浄土教が大流行した。
絢爛たる極楽浄土を心に描く「観想(かんそう)」も重視されたため、極楽浄土は具体的に語られ、
阿弥陀仏の像もおびただしく描かれ、作られた。末法の入口に立ちつくす頼通もまた、鳳凰堂(当時は阿弥陀堂)を建立し、水辺に浮かぶ極楽浄土をこの世に作りだしたのである。
水底の首、主なき笛
近年の修理で平等院鳳凰堂は瓦の葺き替えと塗り直しが行われ、頼通がほれぼれと見上げた創建当初の姿に近づけられた。
以仁王が転がり込んだ際の平等院は創建から100年以上経ており、鳳凰堂はどんな姿で彼を迎え入れたのだろう。
平知盛(たいらのとももり)らを大将とする平家の軍勢も宇治にたどり着いた。
橋板のはずされた宇治橋を挟んで以仁王方の兵と向かい合い、矢合わせが始まる。
まずは三井寺から以仁王に従った僧兵・筒井浄妙(つついじょうみょう)が奮闘した。
大長刀(おおなぎなた)をかまえ、板のはずされた橋のごく細い行桁(ゆきげた)をサラサラサラッと進むと、大音声で、
「噂で聞いたことがあるだろう。
さあ今こそ実物をご覧あれ!我こそは三井寺でも知れわたる、堂衆の筒井浄妙明秀、一人で千人に値するつわものだ。
自信のある奴はさあ寄ってこい、相手をしてやろう!」
まるでサーカスの綱渡りのような状況で秘技を尽くし、五月雨で増水する宇治川に敵をドボンドボンと流していく。
ひとしきり戦ったのち這うようにして平等院に戻り、門前の芝生で鎧や甲を脱ぎ捨てたところ、鎧には63箇所の矢傷があったという。
傷口には自ら応急処置を施し、「南無阿弥陀仏」と唱えながら奈良へと下っていった。
橋の上では激戦が続いていた。
平家方は川の戦に慣れた関東武士・足利又太郎忠綱(あしかがのまたたろうただつな)の指図に従って馬で川を渡り、ついに以仁王の休む平等院に襲いかかる。混乱に乗じて以仁王は奈良へと逃れ、源頼政らが門外で防御にあたった。
しかし頼政は七十をとうに過ぎ、膝頭を射られていた。
もはやこれまで、と門内に入り、西に向かって「南無阿弥陀仏」と十遍唱え、歌を詠む。
埋木(うもれぎ)の花さく事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりけり──
埋木のように、花の咲かない人生だったのに、
こんな情けない身(実)になる結末を迎えるとは、悲しいことだ……
彼は勅撰集にも選ばれる優れた歌人でもあった。
やがて太刀の先を腹に突き立てると、ぐっと上体を前に傾け、刃は貫かれた。
立ち会った渡辺長七唱(わたなべのちょうじつとなう)は泣きながらその首を取り、
敵に奪われまいと石にくくり、宇治川の深いところに沈めたという。
頼政が自害した場所はかつて本堂があった現在の観音堂のそばと伝わり、
軍扇を広げて辞世の歌を詠んだことから「扇の芝」と呼ばれている。
一方、三十騎ほどで奈良へと落ちていったはずの以仁王は、
現在の木津川市の綺田(かばた)のあたりで平家に追いつかれていた。
そこから東方にあった光明山寺(こうみょうせんじ)の入口にあたる鳥居のあたりで雨が降るように矢を射かけられ、その1本が以仁王の横腹にぶすりと立った。
宮はぐらりと馬から落ち、その首はあっけなく取られた。
以仁王の乳母子の六条大夫宗信(ろくじょうのたいふむねのぶ)は近くの池に飛び込み、
水草で姿を隠し、ふるえながら敵兵が去って行くのを見ていた。
そこに首のない白衣の死体が戸板に乗せられてゆく。
彼の目に飛び込んだのは、腰に差されたままの笛。
「もし私が死んだら、棺にはこの笛も入れるようにね」
かつて以仁王が彼にそう言い聞かせた「小枝」という笛だった。この死体こそ宮さま──。
今すぐ飛び出してすがりつきたかったが、それも出来ず、宗信は泣きながら都へ戻っていった。
皇子という貴種でありながら、『平家物語』は以仁王の人間的な生々しさを容赦なく描ききった。
そのためか、彼の存在は人々の記憶から消えることなく、
綺田には以仁王の墓が宮内庁の管理下に整備され、その隣の高倉神社では以仁王の御霊が祀られている。
近くには落命の際に仏事を行ったと伝わる高倉山阿弥陀寺(たかくらさんあみだじ)や、
死闘を繰り広げた筒井浄妙の墓と伝える浄妙塚もあり、
以仁王の悲劇がさほど遠くない時代のように肌で感じられる。
頼政も、以仁王も、無駄死にではなかった。
彼らは死すとも、その「令旨」は全国に届けられ、
燎原の火のように反平家の機運が広がっていった。
源頼朝も立ち上がった。若き北条義時も、
頼朝の弟・範頼(のりより)に従って平家追討のために西国へと向かうことになる。
MAPアクセス情報
- 平等院
- JR奈良線・京阪宇治線「宇治駅」下車徒歩約10分
- 宇治上神社
- JR奈良線「宇治駅」下車徒歩約20分、京阪宇治線「宇治駅」下車徒歩約10分
- 菟道稚郎子尊宇治墓
- JR奈良線「宇治駅」下車徒歩約15分、京阪宇治線「宇治駅」下車徒歩約5分
- 高倉神社(以仁王墓)
- JR奈良線「玉水駅」下車徒歩約25分