第4回
「カリスマの敗北 ── 承久の乱と、暮れゆく王朝」

⼤河ドラマ「鎌倉殿の13⼈」に描かれる時代を京都に探し、
激動期の⼈間模様と史跡をご紹介します。

4 「カリスマの敗北承久の乱と、暮れゆく王朝」

城南宮神苑
城南宮神苑

者、後鳥羽院

平家が都落ちしたとき、絶対に都にあらねばならないものを持ち去っていた。
それは天皇と、三種の神器。
三種の神器は天皇の正統性を示すものとして、即位には必要不可欠だった。
後白河法皇はとにかく天皇が不在であってはよくないと、あわてて新しい天皇を選定する。選ばれたのは高倉天皇の四宮、尊成(たかなり)。まだわずか4歳の、後鳥羽天皇。彼は神器のないまま、即位する。このことが拭いがたいコンプレックスになったことは想像に難くなく、その後の生き方にも大きな影響を与えたようだ。

源頼朝はこの少年天皇におおいに期待して、娘の大姫を入内させようと画策している。鎌倉幕府に朝廷の権威を欲したためであるのはもちろんだが、入京の際に対面した後鳥羽天皇に、たぐいまれな才気を感じたためかもしれない。
彼がそのマルチな才能を発揮したのは、天皇という重荷を下ろしてから。
在位中は九条兼実(かねざね)や源通親(みちちか)らに主導権を握られて宮中を出ることもめったになかったが、建久9年(1198)、子の土御門(つちみかど)天皇に譲位したとき、彼は背中につばさを得る。
院政といえば天皇を退いた老獪な権力者のイメージがあるかもしれないが、このときの後鳥羽院はまだ19歳。

城南宮
城南宮

まずはきゅうくつな宮廷を飛び出し、白河院以来の離宮があった鳥羽殿に遊び、ときには琵琶湖方面へ、ときには宇治の平等院へ、遠いところでは熊野詣へ。
趣味もどんどん広げ、乗馬、水泳、狩猟に蹴鞠、ついには自ら太刀の制作まで行っている。
何よりも後鳥羽院がこだわったのは王朝文化。
武士の世が開かれつつあり、王朝文化は「守らなければ消えゆくもの」という認識をだれもが抱いていた。神器もない動乱の中で即位した後鳥羽院にとって、王朝文化を主宰することはみずからのアイデンティティを担保するものだったのかもしれない。
宮廷儀礼の復活や保存に取り組む中で、もっとも力を入れたのは和歌。みずからも詠み、また多くの歌会をプロデュースすることで歌人たちは腕を磨き、歌壇は熱を帯びていった。その精華として編まれたのが『新古今和歌集』。後鳥羽院周辺の新芸術活動が生み落とした、珠玉のアンソロジーとなった。

鎌倉三代将軍の源実朝も「新古今ファン」であり、朝幕関係は比較的おだやかに推移していた。ところがこの実朝が二代将軍頼家の遺児・公暁(こうぎょう)によって暗殺されてから、不協和音が響きはじめる。
実朝は子供を持たず、自分の後継に後鳥羽院の皇子を迎えることで院と合意していた。そのため北条政子と北条義時は後鳥羽院に皇子の鎌倉下向を要求する。しかし後鳥羽院は実朝の暗殺で幕府に不信感を抱いており、「天皇家の血統が実朝亡き後の鎌倉につながっては国が二分される」と皇子の下向を拒否。交渉の末、摂関家の九条道家の若君・三寅(みとら)を下向させることで決着したが、双方にわだかまりが残った。
同じ頃、後鳥羽院は寵愛する白拍子・亀菊に与えた荘園から地頭を退かせるよう幕府に要求し、拒否されている。意のままにならない幕府に後鳥羽院は苛立ちはじめていた。

鳥羽離宮跡公園
鳥羽離宮跡公園

さらに後鳥羽院にとって愕然とする出来事が起こる。
将軍位を狙っていたとされる大内裏守護の源頼茂(よりもち)が謀叛を起こして内裏に立てこもり、上皇の命を受けた在京御家人に攻められた後、火をかけて自害。炎はまたたくまに内裏を包んだ。内裏とは、王朝のシンボル。後鳥羽院は強い衝撃を受ける。
しかし王朝文化への固執が、彼を内裏再建へと突き動かす。もちろん膨大な費用を要するため、「造内裏役」という臨時の税を全国の荘園や公領に課した。ところが内裏などどうでもいい在地の人々はこの増税に大反対。再建は遅々として進まない。そもそも幕府の後継争いによって起こった災難であるのに、幕府も徴税に応じない。
後鳥羽院の恨みは、幕府の執権、北条義時に向けられる。

承久2年(1220)ごろから、後鳥羽院は鳥羽殿の城南寺という寺をくり返し訪れるようになった。現在の城南宮のあたりと考えられ、後鳥羽院はここで「流鏑馬(やぶさめ)揃え」という射芸を名目に「兵の召集」を行なったという。後鳥羽院は着々と挙兵の準備していたのである。
戦の指揮官としてスカウトした在京御家人の一人に、三浦胤義(たねよし)がいた。兄の義村とともに北条執権家を支えていたが、義時と不和になって京にのぼり、検非違使(けびいし)に任じられていた。胤義は院の近臣である藤原秀康らとともにこの乱の総指揮に当たることになる。
承久3年(1221)5月15日、後鳥羽院は胤義らに命じ、幕府から派遣されている京都守護の伊賀光季(みつすえ)の宿所を襲撃。その日のうちに「北条義時追討の院宣」を出す。
承久の乱が始まった。

宇治川
宇治川

条義時を追討せよ

後鳥羽院挙兵の情報を得た鎌倉方は、当然ながら動揺した。院宣だけでなく、太政官の命令書である官宣旨も下されている。これでは鎌倉幕府は「朝敵」。
北条政子は御簾の奥から、安達景盛を介して御家人たちに語った。
「故右大将軍(頼朝)の恩は、山よりも高く、海よりも深いでしょう? 
その恩に報いる気持ちは決して浅いものではないはず。いま謀叛を企む悪臣の企みにのって、道理に合わない命令が下されました。その名を惜しむなら、胤義らを討ちなさい!京方に付きたいのなら、今すぐここで申し出るように」
この言葉によって、後鳥羽院の挙兵は「義時追討」ではなく、「頼朝が築き上げた鎌倉幕府の危機」にすり替わった。防御はなによりの力を生む。そのことを、政子はよく知っていた。

京方の追討を待たず、鎌倉方から進撃を開始した。御家人たちの士気を高めるために、北条義時の弟・時房と、息子の泰時、そして三浦胤義の兄、義村という幕府の重職の面々を出撃させる。その顔ぶれを見て、我も我もと軍勢は膨らんでいった。
鎌倉方の進撃を伝え聞いた後鳥羽院は、我が方の軍勢を見わたす。
三浦胤義、佐々木広綱ら在京の御家人と、近臣の藤原秀康。そこに院を守護する北面、西面の武士と、美濃・尾張の武士。まだぜんぜん足りない。
比叡山に援軍を要請するものの、「東国の武士には太刀打ちできません」と断られる。
両軍は美濃で衝突。しかしたいして戦うこともなく京方は敗走し、後鳥羽院の焦燥はつのる。
6月13日、鎌倉方はついに都の防衛ラインである二つの川の前に進み出た。
北条時房の軍勢は、瀬田川。そして北条泰時は、宇治川。

平等院
©平等院

どちらも、どしゃぶりの雨だった。
宇治では京方が雨よりも激しく矢を放ってきた。泰時はたまらず一旦兵を引き、平等院の中に陣をかまえる。橋をわたっての突破は無理だ。川を渡るしかない。
翌日、水練を得意とした芝田兼義が地元の翁に浅瀬の場所を聞き出した。口封じにその翁を殺害することも忘れない。兼義は裸になって刀をくわえて中洲の真木島まで泳ぎ、敵がいることを確認して浅瀬の場所を泰時に知らせる。
それでも急流の宇治川を馬で渡るのは無謀だった。兵が次々と飲み込まれていく。泰時はなかばやけくそで渡ろうとしたところ、春日貞幸がその身を案じ、
「甲冑を付けている者が溺れているようですよ」
と言って甲冑を脱がせ、その間に泰時の馬を隠してしまった。その後、民家を壊して筏を作り、泰時は渡河に成功する。忠臣の機転によって泰時の命は救われたのである。
鎌倉方の猛攻が始まり、京方は敗走。瀬田でも鎌倉方が勝利して、承久の乱の結末は見えてくる。

東寺
東寺

瀬田で敗れた三浦胤義と藤原秀康は、寅の刻(午前4時ごろ)に院の御所に参上した。『承久記』慈光本によると、彼らは門前から次のように奏上した。
「君は早くもこの戦に負けておしまいになりました。この門を開けて下さい。御所の中で最後まで戦うところを君にお見せしてから、討ち死にいたします」
 そう呼びかけると、後鳥羽院は言い放った。
「おまえたちがここに籠もれば、鎌倉の武者たちがここを取り囲んで私も攻められる。それははなはだ困るのだ。早く早く、どこにでも立ち去ってくれ」
この言葉は胤義たちの絶望に追い打ちをかけた。命を賭けた戦いは、なんのためだったのか。

鎌倉方が続々と京に迫る。胤義はせめて兄の義村に討たれようと考えた。
彼は挙兵直前、兄に決起するよう手紙を出していた。しかし義村は返事をするどころか、北条義時にその手紙の内容を伝え、あらためて義時への忠節を誓っていた。
胤義は入洛する義村を迎えるべく、都の入口に近い東寺にたてこもる。淀から北上してきた兄の黄色の旗を見つけると、馬で駆け寄り、その無念の想いを大声で叫んだ。しかし義村はそれには応えず、
「愚か者にかまっても無駄」
と、目も合わせずに行ってしまった。

木嶋坐天照御魂神社
木嶋坐天照御魂神社

の落日

京方の武将たちは後鳥羽院からひどい仕打ちを受けたにも関わらず、最後の死力を尽くして立ち向かっていた。しかし勢いのある東国武士にはもはやかなわず、次々と自害して果てていく。
兄にまで見放された胤義も、義村が残していった配下の軍勢や佐原氏の軍勢と最後まで戦い、もはやこれまでと太秦の屋敷に残した子らに会うため、西へと向かった。しかし敵はいたるところにあり、太秦の「木島(このしま)の里」の神社の境内に隠れるが、逃れるすべはないことを悟った胤義は、ここで子の胤連らとともに自害する。
6月15日、ちょうど開戦から1ヶ月。承久の乱は終わった。

胤義が自害した神社は現在の右京区の木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)と伝えられ、自害の際に火が放たれて社は焼け落ちている。近年の発掘調査によって、境内から鎌倉前期の再興時に整地された跡が確認された。
胤義の首は彼の郎党たちによって太秦の屋敷にもたらされたものの、鎌倉方にとって指揮官の首は探索の対象である。皮肉にも兄の義村によって探し出され、その首は鎌倉の北条義時のもとに届けられた。

後鳥羽天皇大原陵・法華堂
後鳥羽天皇大原陵・法華堂

胤義が非業の死をとげたその日、北条時房、泰時、三浦義村をはじめとする鎌倉方と、後鳥羽院の勅使が六条河原で対面した。そこで鎌倉方に下された院宣によって、義時追討の宣旨は撤回された。『吾妻鏡』によると、このとき後鳥羽院は、
「今回の戦は叡慮(自分の意志)ではなく、謀臣の企みによるもの」
と伝えてきたという。謀臣とは、後鳥羽院のために命を落とした京方の武将たちのことか。清々しいまでの責任回避は、王者ゆえのエゴイズムだろう。
戦勝の知らせは鎌倉の義時に伝えられた。
「今、義時にはなんの心配ごともなくなった。義時の果報は、王の果報よりも勝れていたということだ。前世の善行がいまひとつ足りなくて武士のような身分に生まれてしまったということかな」
と語ったという。義時の安堵と、手放しの喜びが伝わってくる。

幕府では残党狩りや勲功の審理など、戦後処理が急ピッチで進められた。
7月6日、首謀者の後鳥羽院は洛内の御所から、鳥羽殿に移される。かつて遊んだ離宮にその身を囚われたのである。その4日後、北条泰時の子・時氏がやってきた。弓の先で院の御座所の御簾をガサリと上げて、
「君は流罪となりました。早く早く、ここからお出になってください」
一介の武士が自分に対してこの態度。そして流罪。後鳥羽院は敗北をかみしめた。
やがて院は逆輿(さかごし)という進行方向とは逆にして運ばれる罪人の移送方法で鳥羽殿を連れ出された。向かったのは、隠岐。
その死まで、都への還御は許されなかった。後鳥羽院はこの孤島で19年もの歳月を大好きな和歌とともに過ごし、60歳で没する。
遺骨となってようやく後鳥羽院は都へ還る。寵妃であった藤原重子(修明門院)が院の水無瀬殿の御所の建物を洛北大原に移して法華堂とし、そこに遺骨は安置された。現在の法華堂は江戸時代の再建であり、後鳥羽天皇大原陵のかたわらに佇む。

土御門天皇陵金原陵
土御門天皇陵金原陵

幕府の戦後処理でもっとも大事だったのは、次の天皇。
後鳥羽院の皇統を断つべく、孫の仲恭天皇は廃されて、後鳥羽院の異母兄である守貞(もりさだ)親王に院政を執らせ、その三男の茂仁(ゆたひと)親王を即位させた(後堀河天皇)。父の守貞親王は安徳天皇とともに西海に流れて生還した人で、天皇に即位することなく院政を執るという希有な運命をたどることになった。
承久の乱後、幕府はこのように天皇の即位に関与するようになっていく。それだけでなく、都には鎌倉幕府の出先機関でもある六波羅探題も設置され、朝廷は幕府の監視下に置かれるようになった。朝廷の力を強めようとしたはずの後鳥羽院は、オウンゴールを放ってしまったのである。

廃された仲恭天皇はまだ4歳だった。父の順徳院が急遽この幼子に譲位していたのは、後鳥羽院の挙兵に参加するためだった。
後鳥羽院は順徳院に自分の気性と通じるものを感じていたようで、同じ我が子ながら温和な土御門天皇を退位させ、弟の順徳を即位させるほど溺愛していた。そのため順徳院も積極的に乱に関与し、佐渡へと流された。
一方、16歳で退位した土御門天皇は静かな暮らしを送り、乱にまったく関与しなかった。そのため幕府も罪に問わなかったものの、父の流罪を目の前にして都に留まることはできない、とみずから幕府へ申し出て土佐国に移った。その後に阿波国に移り、彼の地で崩御する。2年後に遺骨は都に還り、母の源在子(承明門院)が洛西の金原に建てた法華堂に納め、現在は土御門天皇金原陵として整備されている。
気性の激しい後鳥羽院とは異なる性格であったのに関わらず、歌の才があることだけはよく似ていたのだろう。四国へ移ったあとも歌作は続けられ、その想いは歌に残されている。
  うき世にはかかれとてこそ生(む)まれけめ ことわりしらぬわが涙かな
  ──つらい目にあえ、ということでこの世に生まれてきたのだろうなあ。それを理解していないのか、私の涙よ。これが人生だ、泣くんじゃない。

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鳥羽離宮跡公園
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平等院
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東寺
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木嶋坐天照御魂神社
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後鳥羽天皇大原陵・法華堂
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土御門天皇金原陵
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