第2回
「二人の白拍子 ── 動乱の世に響く歌声」
⼤河ドラマ「鎌倉殿の13⼈」に描かれる時代を京都に探し、
激動期の⼈間模様と史跡をご紹介します。
第 2 回 「二人の白拍子動乱の世に響く歌声」
義経、駆け抜ける
源頼朝はついに挙兵した。
若き北条義時も加わるわずかな兵力で平氏一族の山木兼隆(やまきかねたか)に夜襲をかけ、源平の合戦の火蓋が切られる。頼朝は石橋山では大庭景親(おおばかげちか)らに大敗するものの、勢力を盛り返して鎌倉入りすると、平清盛は孫の平維盛(たいらのこれもり)を総大将として東国に送り込んだ。
頼朝の軍勢は甲斐源氏2万の兵と合流し、平家軍とは駿河の富士川でぶつかり合う……はずだった。しかし「富士川の合戦」とは名ばかりで、合戦前夜、平家軍はいっせいに飛び立つ水鳥の羽音を源氏の急襲と思い込んで、総崩れになってしまう。
戦わずして勝った頼朝。翌朝、その陣にひとりの若武者が現れた。ただならぬ佇まいに名を尋ねたところ、
「鎌倉殿(頼朝)はご存じのはず。幼名は牛若」
それは平治の乱の際に生き別れになった弟、義経だった。当時まだ赤ん坊だった牛若は11歳で鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、仏道に生きることを望まずに出奔、奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼っていた。そこに、おもかげすら覚えていない兄・頼朝の挙兵を耳にして、駆けつけたのである。
「さあ、ここへ、ここへ」
義経を迎え入れた頼朝は、涙にむせびながら、心強い味方を得たことを喜んだ。
それからまもなく、平家は滅びへの序曲を奏ではじめる。
富士川の敗走に続き、清盛が強行した福原遷都は挫折に終わり、さらに平重衡(たいらのしげひら)らが南都を焼き討ちしたことによって平家バッシングは高まる。清盛は地団駄をふんだ。
「いいか、私が死んだら供養など要らん。頼朝の首を墓に掛けろ」
病に冒された清盛はそう言い残して、世を去る。
つづいて倶利伽羅峠(くりからとうげ)で木曽義仲(きそよしなか)に大敗した平家の勢力はたえだえとなり、ついに西へと落ちていく。一方、勝利した義仲は都に入って略奪行為などを行ったため、頼朝はその追討を義経に命じる。これが彼の初陣となった。義仲を討つと、今度は後白河法皇の院宣を受けて、摂津の一ノ谷に布陣していた平家の追討に向かう。
都から一ノ谷へ、院宣を携えて駆けてゆく義経は、頼朝の代官として三千余騎を率いる武将になっていた。都を出発して老ノ坂峠(おいのさかとうげ)を越え、摂津に向けて旧山陰道を下っていく。
この旧道は近世では篠山街道(ささやまかいどう)と称され、都に近い亀岡には旧街道のおもかげがよく残されている。義経が戦勝を祈ったという若宮神社や腰掛石も伝わり、義経が誇らかに、そして猛々しくこの道を駆け抜けていったことを物語っていよう。
鵯越(ひよどりごえ)の奇襲によって一ノ谷で平家に大勝した義経は、京都に凱旋する。このとき、一人の女性と出会った。名は静御前(しずかごぜん)。白拍子(しらびょうし)という女性芸能者だった。
義経は頼朝よりさらなる平家追討を命じられ、西へ西へ。屋島を急襲し、ついに壇ノ浦で平家を水底に沈めた。
しかし彼が沈めたのは、平家一門だけではなかった。
「波の下にも都がございますよ」
清盛の妻だった二位尼(にいのあま)が孫の安徳天皇を抱きしめ、三種の神器のうち、宝剣と神璽(しんじ)を抱えて入水した。神璽は源氏によって回収されたものの、わずか8歳の天皇と宝剣は永遠に失われてしまったのである。
頼朝は「平家滅亡」まで望んでいなかった。義経に命じたのは、平家を降伏させて安徳天皇と三種の神器を取り戻すこと。しかしそれは守られなかった。
このあたりから頼朝との不協和音が響いてくる。頼朝はもしかしたら涙の再会のときから気づいていたのかもしれない。ともに暮らすことのなかった弟は、単に「自分から源氏の棟梁の地位を奪う存在でもある」、と。
大きな勲功を得た義経は後白河法皇との距離を縮め、いよいよ頼朝との関係は悪化する。
『平家物語』によると、頼朝は都の義経に刺客を送っている。このとき活躍したのが義経の側室だった静御前。義経邸が敵に取り囲まれていることに気づいた静は密偵を出して様子を探らせ、気丈にも義経に鎧を着せて送り出した。
刺客こそ義経ははねのけたが、頼朝に追われる身となった。北へ北へと逃れ、最後には平泉の地で自害するという運命をたどる。
さて、静は──
中世のアイドル、白拍子
義経と静御前の出会いは、都の神泉苑と言われる。
自然の湖沼を利用して営まれた庭園で、遊覧の地として天皇貴族たちに愛され、また「雨乞い」の場所としても知られていた。『義経記』によれば、ある年100日間も日照りが続き、高僧たちが祈祷を続けたものの効果なく、100人の白拍子を呼び集め、その舞を神泉苑の龍神に奉納することになった。
集まった白拍子たちが次々と舞うものの、雨の気配はない。99人が舞い、残るは一人となった。静である。
彼女が途中まで舞うと、都の西北、愛宕山(あたごやま)の方からむくむくと黒い雲が湧きあがった。ぽつりぽつり。やがて雷が鳴り、稲妻はきらめき、三日間大雨が降り続けたという。
このとき彼女を見初めたのは龍神さまだけではなかった。義経もまた恋に落ちた。
雨雲も呼び寄せる白拍子の舞とはどのようなものだったのか。
平安末期から鎌倉前期にかけて大ブームとなった新しい芸能の一つであり、これを担った女性芸能者たちも白拍子と呼ばれるようになった。
彼女たちは水干(すいかん・下級官人や武士の服装)をまとい、烏帽子(えぼし)をつけ、腰に刀を差す。伴奏するのは鼓。前半は白拍子という歌に合わせて舞い、性を超えた妖しい美しさを存分に楽しませた後、鼓が「セメ」という激しいリズムを打ち始めると足を踏みならして舞い、澄みわたる声で即興の歌をうたった。
舞と声、どちらも優れている者が最高の白拍子であり、その一人が静だった。
時の権力者は彼女たちの芸を愛で、時には愛人としていつくしんだ。平清盛も例外ではない。『平家物語』は白拍子の祇王祇女(ぎおうぎじょ)の哀れな物語を伝えている。
権力の全盛にあった清盛は、祇王という白拍子を寵愛していた。しかし仏御前(ほとけごぜん)という新参の白拍子に心を移したため、祇王は清盛邸を追われてしまう。
祇王は悲嘆にくれる日々を過ごしていたが、再び清盛に呼び出され、ここで白拍子を舞って仏御前の退屈を慰めてほしいと命じられる。屈辱的な仕打ちを受けた祇王は妹・祇女と母・刀自(とじ)とともに「嵯峨の奥の山里」の草庵に入り、世を捨てて尼となった。
あるたそがれ時、祇王たちがかすかな灯火のもとで念仏を唱えていると、ほと、ほと、と竹の編戸を叩く音がする。魔物かと震え上がったが、そこには尼姿となった仏御前がいた。魔物どころか、仏。
彼女はあわれな祇王の姿に世の無常を悟り、自ら清盛邸を飛び出してきたのだった。それから共に念仏に生きる日々を送り、みな往生を遂げたという。
朝夕と祇王たちが仏に仕えた庵の跡と伝えるのが、奥嵯峨の祇王寺。
ささやかな尼寺として伝わっていたものの明治初年に廃寺となり、当時の大覚寺門跡の楠玉諦(くすのきぎょくたい)師が復興に尽力し、現在大覚寺塔頭として法灯を保つ。
草庵の仏間には祇王、祇女、母、仏御前、そして清盛の木像が祀られる。やわらかに手を合わせる彼女たちを取り囲むのは、うっそうとした竹林と紅葉の群れ、そして緑したたる苔の庭。ほと、ほと、と戸を叩く音が今にも聞こえてきそうな静寂に包まれている。
白拍子は後鳥羽院の時代に全盛期を迎えた。
離宮の水無瀬殿(みなせどの)には大勢の白拍子が召され、時には芸を競わせる「白拍子合(あわせ)」を行ったという。
当然ながら後鳥羽院は何人ものお気に入りを召し抱え、子を産んだ白拍子もいた。その中でひときわ愛されたのが亀菊(かめぎく)、またの名を伊賀局(いがのつぼね)。
後鳥羽院は彼女に摂津の長江、倉橋という荘園を与えた。大阪湾に近い水運・海運の要所で、鎌倉幕府の地頭も置かれていたが、後鳥羽院はこの荘園の地頭を廃止するように幕府に院宣を出す。
ところが幕府がこれを拒否したため、承久の乱が引き起こされたと語られることが多い。乱の原因はそれほど単純なものでなかったが、慈光寺本『承久記』では、白拍子という美女によって乱が起きたと語られ、亀菊は悪女の烙印を押されてしまった。
しかし亀菊は承久の乱に敗れて隠岐に流された後鳥羽院に同行し、その死も見届けたという。後鳥羽院にとってたまたま見初めた白拍子の一人だったとしても、亀菊にとって後鳥羽院は、人生そのものだったのだろう。
海鳴りがきこえる
一説に、白拍子は哀切な音色として聞かれていたという。そのためだろうか、白拍子たちの物語には、つねに哀しみがつきまとう。
『義経記』が語る静御前の物語はなにより哀しい。
頼朝に追われる身となった義経は、少しの従者と奈良の吉野山中に潜伏する。
従者の一人、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)は不満を隠さなかった。こんな深山の強行軍に、なぜ殿は女性を連れているのだ、と。義経はどうしても静と離れられなかった。しかしこれから先の逃避行にはとても連れてはいけない。静は身籠もっていた。
生木を裂くようなつらい別れののち、静は従者5人とともに雪道をたどる。しかし従者たちは一本の木の下に敷物を敷いて、
「ここで少しお待ちください」
と語って、義経が静に与えた財宝もすべて持って姿をくらます。
静は極寒の吉野山中をさまよいはじめ、足から流れる血は雪を赤く染め、衣は凍りついた。やがて蔵王堂にたどり着き、衆徒たちの情けで都に護送される。
しかし静の妊娠はすぐに北条時政、義時親子の耳に入り、静は鎌倉に連行されることになった。静を初めて見た頼朝は、ポウと惚れた。それゆえに、妊娠を知ったとたん、
「あのバカな男の血を継ぐ子など、殺してしまえ」
その通りに、静が生み落とした男児は由比ヶ浜の浜辺で殺されてしまった。さらに鶴岡八幡宮に参詣した頼朝の求めに応じて、白拍子を舞うことになる。静は芸に恨みを込めた。
しづやしづ賤(しず)のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな
──あのお方が、静よ、静よ、と繰り返し私の名前を呼んでくださったあの頃を、今にとりかえしたいもの……
頼朝はこれを聞いて、サッと御簾を下ろしたという。静はいただいた褒美すべてを、殺された赤ん坊の供養のために寺社に奉納した。
静のその後はどのようなものだっただろう。
『義経記』によれば鎌倉から京都の北白川の自宅に戻り、出家して大阪天王寺(または京都天龍寺)の近くの草庵で20歳の若さで往生を遂げたという。史実は闇の中だが、彼女の悲劇は多くの文芸や芸能で語られ、いくつもの伝承を生み出してきた。
京丹後市網野町磯(いそ)は静の生誕地と伝えられ、晩年はこの地に戻り、義経と子の冥福を祈る日々を送ったと伝えられている。地名の磯は母親の名前が「磯禅師」であったことに関わるかもしれないが、静を語りながら仏教の教えを説く女性宗教者が後世に存在したらしく、彼女たちの足跡がここに残ったとも考えられている。
伝承であったとしても、静の晩年を想像するのにこれほど似つかわしい風景はあるだろうか。
磯の集落は日本海の崖に張り付いたような小さな漁村で、少し離れた高台に静神社がある。急な石段の先にささやかな社殿が海に向かって建ち、中には静御前の木像が安置される(非公開)。目の前の海からは途切れなく海鳴りが響き、淡く濃く、波がいきつもどりつしている。足下には椿の赤い花の群れ。
「静生誕の地」碑は、磯の集落の細い路地を海に向かって降りていき、そこから先はぽとりと海に落ちてしまう、崖の上の小さな平地にあった。晩年の静はこの場所に草庵を結んだという伝承があり、今も崖下の海岸は「尼さんの下」と呼ばれている。
俗世の哀しみを一身に受けた静の目に、陸地の果ての淡いグレーの風景は優しく映ったにちがいない。
哀切な音を奏でるという白拍子は、舞う姿も「はなはだ物思(おもは)す姿なり」──激しく思い悩むような姿だったという(『続古事談』)時代の端境期に生まれた芸能は、その担い手の女性たちを栄華に導き、また過酷な運命も背負わせた。
後鳥羽院と運命をともにした亀菊もきっと、隠岐の海鳴りを耳にする晩年を送ったことだろう。
MAPアクセス情報
- 若宮神社・源義経の腰掛岩
- JR亀岡駅より京阪京都交通バス「国道佐伯」下車徒歩約10分
- 神泉苑
- 地下鉄東西線「二条城前駅」下車徒歩約2分
京都駅より市バス「堀川御池」下車徒歩約5分 - 祇王寺
- 京都駅より市バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩約15分
JR山陰本線(嵯峨野線)「嵯峨嵐山駅」下車徒歩約25分 - 静神社・静御前生誕の地碑
- 京都丹後鉄道宮豊線「網野駅」からタクシーで約12分