第1回
「逃げろ、家康 ──本能寺の変のもう一つの物語」
光秀は不機嫌
これほど魅了される石垣にお目に掛かることはめったにない。
明智光秀が建てた福知山城は明治時代に破却の憂き目にあうも、みごとな石垣は残されて、昭和には大天守と小天守が再建されて戦国の美観がいまに再現された。
未加工の石を積み上げる「野面(のづら)積み」の石垣は光秀の時代のもので、間近で見ると色も形もばらばら、思うままに積み上げたように見えるのに、遠望するときっちりと石垣の直線を描いている。
近くで見上げると、石のいくつかに模様があるのに気づく。これは蓮弁? 梵字?
実はこれらは宝篋印塔や五輪塔、石仏などを石垣に転用したもの。福知山城の石垣はことのほかこの「転用石」が多い。信仰の対象物を石材にするなんて、と一瞬ギョッとする。戦国時代の城郭によく見られる手法で、織田信長の安土城では人々が踏みしめる石段にまで石仏がはめこまれ、思わず足の行き場を失うこともある。石材不足を補うためとも言われるが、転用石のもつ信仰の力で城を守護してもらうため、という説もある。
500あまりの石が転用されているという福知山城の石垣を見上げると、古い価値観をひっくり返して合理性を求めた戦国の力強さも感じられる。
明智光秀は信長の命令で丹波地方を平定し、その拠点として福知山城を築いた。このころ光秀は信長の最有力の宿老となっていたが、丹波平定よりのちは坂を転げ落ちるように主従の関係が悪化していく。
信長の超合理主義的な政策によって、光秀は信長の命令であったはずの四国支配のはしごを外されていた。さらに重要なポストは信長の子弟や森蘭丸ら近習たちといった若手に傾き、古参の宿老である光秀たちは遠国へ追いやられそうになっていた。これまで信長の命令で一つしかない命を多くの戦に賭してきた光秀は、
「そりゃないよ」
と、豊臣秀吉の援軍のために中国地方へ出立する馬上でつぶやいたかもしれない。直前まで光秀は安土城での徳川家康への接待役を信長より命じられていた。
「おもてなしの内容の相談をしていただけなのに、殿は何が気に入らないのか急に逆上して私を蹴った。2回も」
こんなことも考えたかもしれない。
「家康どのが心底うらやましい。私が用意した鮒のなますを実にうまそうに食べていたそうだ。それなのに私は、これから修羅場を迎える」
家康、のんびりする
家康はこのとき41歳。
三河の小さな大名・松平家に生まれ、6歳にして今川家へ人質として送られることになったものの、その途中で尾張の織田家にさらわれてそのまま織田家の人質となり、8歳のときに人質交換として今川家に入る。翻弄される運命、という言葉がよく似合う若君だった。
長じて今川家の客将となるも、桶狭間の戦いで今川義元を討った織田信長に従うようになる。
天正10年(1582)の信長の甲斐武田攻めにも従い、武田氏が滅亡すると、家康は信長の論功行賞により駿河を与えられる。5月15日、安土城にて信長より篤いもてなしを受けることになった。接待役を命じられた光秀は家康のために奈良の興福寺まで調度品を借りにいくほどの奔走ぶりを見せる。
「せっかくだから、京や奈良、堺でも見物してみてはいかが」
と信長が勧めるままに、家康は京都で遊んで29日に堺に入り、信長の側近である松井友閑の接待を受け、世に鳴り響く有名茶人──今井宗久、津田宗及の茶会に参加し、都会の華やかな世界を堪能するのである。同行していたのは、武田家の家臣でありながら家康の説得で織田方になびいた穴山梅雪。信長は堺衆に「しっかり家康を歓待するように」と指示を出していたようだ。
一方、光秀は家康接待の途中でライバル秀吉の援軍を命じられ、西国へ向かうことになった。軍勢を率いて都から老ノ坂峠を越え、福知山城と並ぶ丹波の拠点・亀山城に入る。5月27日から28日はここから愛宕山に登り、愛宕神社ではおみくじをやたらと引いた。そして親しい仲間と「愛宕百韻」として連歌会を開き、よく知られる句を詠む。
ときは今 あめが下知る 五月かな
「あめが下知る」が「天下を支配する」と解釈できるため、光秀の決心が詠まれているとも言われる。愛宕山は都を取り囲む山ではもっとも高く、「あのお方」が滞在する予定の本能寺のあたりも見下ろせた。
光秀が西へ行くはずの軍勢をぐるりと都へ返したのは6月2日。この日は信長の三男・織田信孝を最高指揮官として大坂から四国への討伐軍が出立する日だった。その討伐の対象である長宗我部(ちょうそかべ)氏と通じていた光秀は、自身の四国支配のために、長宗我部氏を危機からなんとしても救いたかった。
だから、6月2日未明、本能寺。四国討伐なぞ吹き飛ぶ大事件が勃発する。
信長、油断する
そのとき信長は2、30人の小姓衆だけを従えて上洛し、本能寺に宿泊していた。茶会を開き、勅使や公家、堺衆たちに自分の収集した名物の茶器、絵画などを披露している。これは権威を示すための立派な政治活動だった。そのあとは囲碁を観戦したりして、
「さあて寝るか」
とでも言って、誰もいない広間に蚊帳を吊って、信長は床に入った。彼に朝は来なかった。
寝床だけでなく、本能寺そのものがガランとして、入り込んできた光秀の軍隊に刃向かうことができる者が少なかったという。完全なる信長の油断。
「やっぱり今日が正解」
信長討伐の一報を受けた光秀は、胸をなでおろしたことだろう。
信長の首実検はなく、その遺骸は阿弥陀寺の僧・清玉(せいぎょく)によって火葬され、骨は阿弥陀寺に運ばれたと記録にある。
なぜゆるゆるの態勢で信長は上洛したのか。一説には、信長が将軍に推任される準備のための入京だったと言われる。四国討伐で有力武将が出払って警護が手薄な状況でも、朝廷の呼び出しであれば入京せざるを得なかったのではないか、と。
光秀の軍が京に入ったとき、人々は「家康を討ちにきた」と思ったという(フロイス『日本史』)。それとは知らず、家康は接待漬けに顔をゆるめながら、
「ほんとはいい人かも、信長さま」
などと思っていたかわからないが、信長がいるはずの京都へふたたび向かった。その途中、家臣の茶屋四郎次郎が早馬で家康一行に一報を届ける。
「謀叛です」
家康は耳を疑った。と同時に、信長に従う自分の命も危ない、とすぐに悟った。急いで三河へ帰らなければ。しかし家康も行軍の旅ではないから、供の者はほんの少し。
「あ、これはもうだめだな」
そう思って、松平ゆかりの京都の知恩院で自害することも考えたという。光秀の追っ手も恐ろしいが、もっとイヤなのは落ち武者狩り。このような騒動が起こると、かならず有象無象の輩があちこちにわいて出て、敗残兵の武器、武具などを狙うのだ。
しかし本多忠勝や伊賀出身の服部半蔵正成ら心強い家臣たちの進言を受けて、家康は死なずに逃げることを選ぶのである。
強行、伊賀越え
堺から三河へ。
開けた道を行けば楽で早い。けれど光秀の軍に見つかる。
山道を行けば人目にはつかない。けれど落ち武者狩りに遭いやすい。
迅速かつ入念に、逃走ルートは練られた。
ルートは諸説あるものの、現在の大阪・四條畷から京都の京田辺市の甘南備山を越えて伊賀方面へと向かったという。世にいう「伊賀越え」である。
このとき家康に同行した服部半蔵はよく知られるとおり「伊賀者」。正成自身はいわゆる忍者ではなく侍だが、伊賀者を束ねて松平家に仕えており、伊賀越えは「半蔵ナビ」があるがゆえに地の利があったようだ。
甘南備山頂にある現在の甘南備神社の境内から東を見わたすと、伊賀にむかって連なる低い山並みが濃くうすく見える。あの山々の峠道を家康はいくつも越えていくのだ。
本能寺の変から一夜明けた6月3日。
甘南備山を越えた家康一行の行く手を阻むのは、たっぷりとした水量で蛇行する木津川。草内(くさじ)の渡し場から舟で越えたと言われ、現在その渡し場あたりに小さな石碑が建つ。家康の伊賀越えの軌跡の一つとして伝えているが、ここは家康と別行動をとった穴山梅雪が落ち武者狩りにあった場所でもあった。家康にたった一日遅れてこの渡し場にたどり着いた梅雪は、川を越えられなかったのである。伊賀越えが「神君(家康)伊賀越え」と呼ばれている背景には、このような家康の運の強さも含ませているのかもしれない。
現在は草内の渡し場跡の近くに穴山梅雪のものと伝わる墓が残されている。
ゆらりゆらりと木津川を渡し舟で越え、家康は現在の井手町に上がり、いよいよ伊賀への山道へと入り込んでいく。
井手町には「家康が伊賀越えの際に田原道を通った」という言い伝えがある。「田原道」とは古代の官道のひとつで、現在の城陽市青谷から宇治田原町に入り、滋賀県の瀬田に至るルート。山また山の艱難の道のりだが、奈良方面から滋賀、さらに東国へ向かう重要な道の一つだった。たとえば天平宝字8年(764)の恵美押勝(えみのおしかつ)の乱では、押勝が宇治道を通って奈良から近江に逃げようとしたところを、孝謙上皇方が田原道を通って先回りし、要衝地である瀬田橋を焼き落として勝利した。また承久の乱でも幕府軍が田原道を通って宇治に入り、後鳥羽上皇軍を破っている。険しい分、いざというときのショートカットとしてよく知られていた。
いま家康のおもかげを追って井手町の田原道を歩くと、最初は市街地ながら次第に山のふところへと入っていく。茶畑を過ぎて竹林の小径を進むと、いよいよ家康一行が息をきらす声が聞こえそうな風景。実際はどんな道だったのかというと、大津市での関津遺跡で発掘された古代の田原道の遺構は幅15メートルもあったというから、家康の時代は今よりもう少し整備された「街道」であったかもしれない。
青谷からさらに東へ、東へ。
市辺のあたりでは新(あたらし)主膳正末景と市野辺出雲なる人物が所領の人夫60〜70人を召し連れ、家康を出迎えたという。彼らは信長の家臣であった山口氏の居城・山口城から遣わされた者たちで、各所各所に根回しがされていたことがよくわかる。
山口城は現在の宇治田原町にあり、家康はここでほっと一息、昼食をとる。今はもう城はなく、山口氏の菩提寺である極楽寺の山門がかつての山口城の裏門と伝えられる。寺の裏手には堀跡が残り、あとは茶畑が広がるばかり。
ここでお腹を満たした家康は、松峠へと向かう。この山道は今も木々に覆われて暗く、木の根に足が取られそうになるような細道が続く。不安になるところで「家康伊賀越えの道」という看板が現れると、むしろ家康に守られているような気持ちにもなる。鹿がひょいと道に飛び出すこともある。鹿ならいいが、家康の逃避行では時代劇のようにバラバラと両脇から命狙う落ち武者狩りが現れるのだから、いよいよ恐ろしい。
峠を抜けてささやかな人里が見えてくるとホッとするが、家康一行にとって人里の方が緊張を強いられたかもしれない。
さらに山道を東へ。
もうすこしで滋賀の甲賀へ抜ける裏白峠、というところで、家康一行は一度休憩をとる。奥山田という集落の遍照院という寺院でこれからの逃避行の計画を綿密に立てたという。
遍照院は現在も人里を見下ろす高台で法灯を保っている。山門をくぐると、水墨画を見るような見事な梅の古木。荒々しい木肌で枝を重々しく伸ばす様子はまるで龍が天に向かうような、と思ったとおり「飛龍紅梅」と名付けられ、樹齢は500年を超えるという。梅の根元にある庭石は「家康公 腰かけの石」と名付けられ、家康がこの石に座ってこの梅の木を見上げて観賞したと伝わる。家康がここを通ったときは梅の季節ではないけれど、
「泰平の世がきたら、梅の季節にまた来ようかな」
と思ったにちがいない。そう、泰平の世がきたら。
つかの間の休息をとって、一行は夕刻に裏白峠を越えて甲賀へ。多羅尾氏の小川城に一泊して6月4日。御斎(おとぎ)峠を越えて伊賀に入ると、音羽村で一揆の襲撃に遭う。からくも逃れ、さらに山賊で知られる加太峠も越えて亀山へ抜ける。白子浜に着いたのは夜。そこから舟で伊勢湾を渡り、三河・大浜港に上陸し、ついに自国領に入った。
岡崎城は夜のしじまの中。それは家康の目にどのように映っただろう。
「おのれ光秀、死ぬかと思ったじゃないか」
と言ったかどうか、家康は光秀に対し、主君が討たれた恨み以上の恨みを抱いたにちがいない。こうして彼の「本能寺の変」は終わった。
家康はその後、伊賀越えの際に忠節を尽くしてくれた人々に感謝状や身分を保証する誓紙を与えるなどして、恩返しを忘れなかった。だいぶ遅れて11月12日、もっとも骨折りだったにちがいない伊勢から三河大浜への舟の世話をした吉川平介にも感謝状を贈っている。
勢いのある時にすり寄る人より、危機の際に手をさしのべてくれる人。家康が大切にしたのはそんな人々だったのかもしれない。いただいた恩は決して忘れない。それが家康という男だった。
※伊賀越えには他に大坂道など諸説あります。
JR「福知山駅」下車徒歩約15分
JR「亀岡駅」下車徒歩約10分
京都駅より市バス「四条西洞院」下車徒歩約7分
近鉄「新田辺駅」または、JR「京田辺駅」下車、麓まで徒歩約30分
穴山梅雪の墓
近鉄「興戸駅」下車徒歩約20分
草内の渡し場跡
近鉄「新田辺駅」または、JR「京田辺駅」下車、徒歩約25分
JR「宇治駅」または、近鉄「新田辺駅」より京阪バス「郷之口」下車徒歩約10分
遍照院
JR「宇治駅」より京阪バス「維中前」でコミュニティバスに乗り換え、「茶屋村」下車徒歩約5分