第2回
「耐えろ、家康 ──織田大名から秀吉の臣下へ」
弔い合戦には間に合わなかった
桂川、宇治川、木津川が集まって淀川となる大山崎の地。
古くから瀬戸内海と都をつなぐ淀川物流ラインの起点であり、京都の出入り口としてたいへんな賑わいを見せていた。現在も新幹線も含めた三本の鉄道が近接して走り、近くには大山崎ジャンクションが近未来のような造形美を見せる。いわゆる「ジャンクション萌え」をうならせる高速道路の巨大結節点のすぐ近くに、ささやかな公園がある。その中にささやかな石碑。刻まれているのは「山崎合戦古戦場」。
石碑の背後には、歴史に名高い天王山が見える。
いわゆる「天下分け目の天王山」とはこれで、たびたび戦が起きる交通の要衝・大山崎でもっとも有名な戦が豊臣(羽柴)秀吉と明智光秀がぶつかった山崎の合戦だろう。
かつては「天王山を舞台に秀吉方と光秀方が戦った」と教えられたが、史実としては天王山そのものでの戦いはちょっとした前哨戦であり、両軍が本格的に対峙したのは石碑のある一帯、円明寺川(現・小泉川)を挟んだ沼地だった。
本能寺で信長を討った明智光秀に、やれやれと息をつく暇などはなかった。
「秀吉が迫っております」
その報を受けた光秀は、ひどく驚いたにちがいない。信長家臣としてライバルにあった秀吉がすぐ報復行為に出るのは想定内であっただろうが、いまは備中高松城攻めに苦慮しているはず。これほどのスピードで引き返してくるとは思わなかった。
迎え討つは、京都のフロントライン、大山崎。本能寺の変からわずか11日後、天正10年(1582)6月13日のことだった。
光秀の本陣は当時「御坊塚(おんぼうづか)」と言われた場所で、境野一号古墳または恵解山(いげのやま)古墳がそれと言われ、どちらからも当時の鉛玉(鉄砲玉)が発掘されている。
一方、秀吉の本陣は天王山の中腹にある古刹・宝積寺に置かれた。JR山崎駅のすぐ近くに天王山登山口があり、息を切らしてつま先あがりの道を10分ほど進むと、仁王門が迎え入れてくれる。参道の右手に均整のとれた美しい三重塔。秀吉が一夜にして建てたという伝承から「一夜の塔」とも呼ばれるもので、一夜というのはさておき、たしかに一層目の瓦は豊臣大坂城と同じ型「同笵(どうはん)」であるため、秀吉が建立に関与した可能性は高い。
現在は木々に阻まれて合戦地は見えないけれど、6月13日夕刻、秀吉はおそらくこの地にいたまま、光秀方が総くずれとなって散り散りになっていくのを確認する。
這々の体で光秀が転がり込んだのは、恵解山古墳の背後にある勝龍寺城。ここは京都防衛の要害として信長が重視し、細川藤孝に命じて改修させていた。光秀にとって娘たま(のちの細川ガラシャ)が藤孝の嫡男・忠興に輿入りした際に結婚式を挙げた思い出深い場所だった。すでに藤孝たちは丹後に領地を与えられてここにはいなかったが、
「きれいだったなあ、たま」
と思うほど光秀に余裕があったかどうか、合戦に備えて事前に修築をしていたこの城に、いま敗走する。
とは言ってもまだ敵は近く、のんびり朝を迎える猶予はない。夜中に城の北門を抜け出して、居城である近江坂本城(滋賀県大津市)を目指した。その途次、落ち武者狩りの手に落ちるのである。
勝龍寺城の跡地はいま勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓を望むことができる。光秀が抜け出したという北門の跡地には当時の石垣の一部が残り、福知山城などでも見られた五輪塔の転用石も確認される。
夜の闇へ消えてゆく光秀の足音を聞いた、物言わぬ証人である。
「羽柴秀吉、天王山にて明智光秀を討つ!」
秀吉の使者から届けられた報を聞いて、家康は喜んだか、苦虫をかみつぶしたか。
伊賀越えから無事に岡崎に生還した家康は、態勢をととのえて信長の弔い合戦に挑むべく、14日には尾張鳴海(名古屋市緑区鳴海町)まで出陣していたという。しかし報を受けて21日には兵を収めて岡崎に引き返した。大きな戦をせずに済んだのは幸いだったけれど、必然的に秀吉の存在が強大なものになっていく。
案の定、27日に尾張の清洲城で開かれた信長の後継を定める「清洲会議」では、秀吉が推した信長の嫡男・信忠の遺児「三法師」(のちの秀信)が後継と決められた。
私一人が腹を切ればいい
三法師はわずか3歳だった。
秀吉が実権を握ろうとしていたことは目に見えており、三法師の叔父である信長の次男・信孝と三男・信雄はこれに当然不満があった。信孝は織田家臣団の一人、柴田勝家と結託して賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で秀吉と衝突。結果として、この戦が勝者の秀吉の権力を確固たるものにしてしまった。
一方、信雄が組んだのが家康。小牧・長久手の戦いで家康は秀吉軍と対峙するものの、決着はつかず、冷戦状態のうちにじわじわと秀吉は権力者としての既成事実をつみあげていく。朝廷の官位も関白にまで上りつめ、都の聚楽第(じゅらくだい)を築き──そしてついに家康に、
「私が支配する都においで」
と申し入れてきた。反対する家臣たちに、家康は言った。
「私が一人腹を切ればいい話。上洛を拒否したら戦になるだろう? そうしたら、多くの民が死ぬ。その亡霊たちがなんと思うのか、私は怖いのだ」(大久保忠教『三河物語』一部抜粋意訳)
天正14年(1586)10月27日、家康は大坂城に入り、臣下として秀吉に「拝謁」するのである。
(写真提供:便利堂)
名実ともに、信長の覇権を引き継いだ秀吉。
彼が信長から引き継いだものの中に、「千利休」があった。茶の湯をもって主君に仕える「茶頭(さどう)」として信長のもとにあった利休は、本能寺ののち、秀吉に迎えられる。
山崎の合戦後に秀吉が天王山に山崎城を築いた際、利休に命じて作らせたのが茶室「待庵(たいあん)」。たった二畳、採光もわずか、竹や土など粗末な材で作られた濃密な空間は、利休が茶の湯で目指した極地だった。利休が作ったと信じられる唯一の茶室として、現在は大山崎町の妙喜庵に移築されている。
利休を得た秀吉は、信長と同じく茶の湯を通じた政治活動、いわゆる「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」を推し進める。家康もまた利休には茶道具の世話などをしてもらい、たった一人で利休の茶会に招かれたことも記録に残っている。なんて贅沢。
手強いライバルだった家康を臣従させた秀吉は、そこから堂々と天下人の道を歩む。
天正16年(1588)、秀吉の居城・聚楽第に後陽成天皇が五日間行幸する。このとき参列した家康は従二位大納言の官位を得ており、秀吉はかつてのライバルをずいぶん優遇していたことがわかる。
小田原攻めの勲功によって江戸を含む関東一円を与えられた家康は、豊臣政権下では最高の官位、最大の領地を持つ大名となり、しばらくは平穏のときを迎えた。
秀吉が政治利用したものは茶の湯のほかに、猿楽、現在の能もあった。
セルフブランディングに長けた秀吉は、宮中や聚楽第などで盛大に能の会を催して財力・文化力の高さを誇示した。そこでは家康自身もよく舞った。『野宮』『松風』など、恋に苦しむ王朝女性を演じることが多く、さらに当時のコメディ劇である狂言も演じたというから、家康の意外な一面が知られる。
慶長2年(1597)3月8日には秀吉に従って京の醍醐寺で桜を鑑賞している。その約1年後に世にも名高い「醍醐の花見」が行われることになり、山門から上醍醐の中腹にいたるまで約700本の桜の木が植えられ、現在の三宝院もこの頃に再興されている。
しかし慶長3年(1598)3月15日の本番に家康はいなかった。1,300人もの招待客のほとんどが女性で男といえば秀吉と、まだ5歳の子・秀頼、そして前田利家のみ。女たちは終日桜を楽しんだものの、陰では厳重な警備態勢が敷かれていた。
「女好きだから? そうではない。私は怖いのだ」
このころの秀吉は、弟である関白・秀次一族を虐殺し、手詰まりの朝鮮出兵を再開させるなど、理解しがたい行動をとるようになっていた。命を狙われてもおかしくない孤独な独裁者が、晩年の秀吉の姿だった。
その醍醐の花見から2か月後、秀吉は体調を崩し始め、7月には危篤に陥る。
隠居地であった伏見城で病の床にいた秀吉は、諸大名に秀頼への忠誠を誓わせ、五大老の一人として家康は血判を捺している。
「しつこいようだけれど、秀頼を頼む、五人の衆よ」
秀吉は遺言状でも念をおした。それほど秀頼は幼く、家康の力は増大しつつあった。
8月18日秀吉死す。
秀吉の遺骸は京都東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、秀吉を神として祀る豊国廟(ほうこくびょう)・豊国社(とよくにしゃ)の建設が始まる。
家康ら五大老と、石田三成ら五奉行の「五大老・五奉行制」がとられ、家康は秀吉の遺言のとおりに、伏見城で政務を執り、同じく五大老の前田利家が大坂城で幼い秀頼を補佐することになった。
秀吉の死はあきらかに家康の背中につばさを与えた。しかし史料を見ると、何度も家康は豊国社に参詣している。秀頼の名代ということもあっただろうが、会津攻めを前にしての社参などを見れば、知力胆力で天下人にまでのぼりつめた秀吉に、なお寄せる想いはあったのだろうか。
家康、天下殿になられ候
家康と言えば江戸城や駿府城を想起する人が多いかもしれないが、征夷大将軍に任じられたのも、長く政務をとったのも、実は京都・伏見だった。
秀吉の築いた伏見城は現在の明治天皇伏見桃山陵あたりにあり、御陵の背後の台地の上に本丸が建っていた。
家康は秀吉の存命中は家老として伏見城に出仕しており、現在の乃木神社のあたりに家康の邸宅があったと考えられている。秀吉の死後もここで政務を執り、不評きわまりなかった朝鮮出兵は五大老・五奉行の連署で和議をはからせ、さっさと兵を撤収させている。
ところが五大老のひとり、前田利家が亡くなると体制のバランスが崩れはじめる。家康の力が突出し、伏見の自邸から伏見城西丸に入って自らの裁量で政務にあたった。これを聞いた興福寺の多聞院英俊(たもんいん・えいしゅん)は、
「天下殿になられ候」
と日記に記している。秀吉の次は家康、という認識が世間に広がってゆく。
伏見の御香宮神社は、家康が伏見を制したことを象徴的に伝えている。
古くから名水「御香水」で知られ、平安時代にはすでに御香宮として祀られていたが、秀吉が伏見城を築く際に鬼門を守る神として城内に移転させた。本来の地、つまり現在の場所に戻したのは家康である。社殿を建立するのは征夷大将軍になった後だが、重要文化財の本殿には徳川の三つ葉葵の紋が輝き、伏見に徳川の時代が訪れたことを人々に知らしめるものだったにちがいない。
外交の代表権も、大名などに知行を認めるのも家康単独の裁量となり、家康の一人勝ちとなっていく。秀吉と同じように権力者としての既成事実を積み上げてく様子に、やはり不満の声はあがった。
反家康。
それは家康が属する五大老・五奉行制の内側から起こった。
まず五大老の上杉景勝は会津に下り、謀叛の動きを見せる。それに対応すべく、家康が江戸城に入ると、五奉行の石田三成らが反家康として動き出し、五大老の毛利輝元は大坂城の家康勢を追い出す。さらに五奉行の前田玄以、増田長盛、長束正家らもひそかに諸大名に挙兵の檄文を送った。
秀頼を10人の忠臣が支える──そんな秀吉が見た夢は、はかないものだった。
やがて「関ヶ原」への火蓋が切られる。
嵐のように反家康の足音が耳に入り、殺気立つ家康をほっこりとさせたという逸話が丹後の久美浜に残る。
加賀金沢に帰国した五大老・前田利長にも反家康の企てありという密告があった。そこで家康が加賀征伐に乗り出すという風聞が流れると、どきりとしたのは丹後を治めていた細川忠興。ガラシャとの間に生まれた忠隆の正室が、前田利家の娘だった。
案の定、同じく謀叛の疑いが掛けられたため、忠興は父の幽斎や久美浜城主の松井康之らと潔白を表明する起請文を家康に提出。さらに節供の祝いとして家康に久美浜湾で捕れたコノシロで作った「このしろ寿司」を2樽送った。
「すんごくおいしかった」
という意の家康の礼状が届き、謀叛の疑いは晴れたという。
丹後の平和を守ったこのしろ寿司は、京丹後市久美浜町で今も2軒のお店が製造、販売を行っている。
冬の脂ののったコノシロを背割りにして塩でしめてからお酢に一晩浸し、調味料を加えたおからをお腹に詰めるのが特徴(販売は11月〜4月のみ)。目の前の豊かな久美浜湾で捕れるコノシロは小ぶりのものが多く、脂がのっていてもしつこくなく、すしによく合うという。食料の少ない冬の貴重な保存食として愛された。
「この城(このしろ)を守る、か。名前もいいよね」
と言ったかどうか、家康がこの珍味を酒肴にほろ酔いで能を舞い、人生最大の大いくさに備えた、ということもあったかもしれない。
(写真提供:京都新聞社)
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