第3回
「超えろ、家康 ──ゆるゆると、天下人」

伏見城・模擬天守
伏見城・模擬天守
「関ヶ原」は関ヶ原だけではない

1600年、という受験生にやさしい年に関ヶ原の戦は起こった。
関ヶ原といえば、誰もが美濃国の関ヶ原で行われた天下分け目の合戦を思い浮かべるが、大きな意味では、家康を総大将とした東軍と毛利輝元を総大将に石田三成らを主軸とする西軍が「各地」でくりひろげた一連の戦いを指す。
京都も思いきり巻き込まれていた。

一つには、秀吉亡きあとに家康が政務を執った伏見城の炎上。
1600年6月16日、家康は反家康の動きを見せた会津の上杉景勝を討つべく、拠点としていた大坂城を出発する。途中、伏見城に寄り、「伏見御城籠衆(ふしみおしろこもりしゅう)」と呼ばれる鳥居元忠ら家臣に留守を頼む。
それは軽い挨拶ではなかった。反家康の動きは深刻化しており、この伏見城は徳川勢の拠点として「狙われて当然」であることは、家康も、残される家臣たちもわかっていた。それゆえに、今川時代から支えてくれた元忠とは朝まで酒杯を交わしたという。
家康が江戸城に入ると、案の定、石田三成・大谷吉継らも反家康を掲げて蜂起。それを受けて前田玄以ら三奉行が「内府ちがいの条々」(家康の悪行アレコレ)という文書を諸大名に送る。「五大老・五奉行の誓紙に違反したり、伏見城を占拠したり、大坂城西丸に入り込むわ天守を造らせるわ……」

宇治・興聖寺 法堂
宇治・興聖寺 法堂

7月19日、ついに石田三成方による伏見城攻めが始まる。昼夜を問わず大雨のように鉄砲が撃ち込まれ、天地を揺るがすほどの轟音が鳴り続けたという。城内の恐怖は想像するにあまりあるが、その音は洛中まで届き、都びとも震え上がった。
堅牢な城も、決死の防御も、10日を超える猛攻には耐えられなかった。8月1日、天守は焼け落ち、鳥居元忠は自害。
そのあと関ヶ原の本戦があったため、彼らの遺骸は長く放置され、その血痕は畳、床板に染みついた。これらは供養のために剥がされ、京都の寺院に貼られたという。市内の養源院、宝泉院のほか、宇治の興聖寺などに「血天井」として遺され、戦国の生々しさをいまに伝えている。

もう一つの「京都の関ヶ原」は、舞鶴市の田辺城。
領主の細川忠興が家康に謀叛を疑われて「このしろ寿司」を送って事なきを得たことは前回書いたとおり。父の藤孝は明智光秀の古い盟友で、信長の勧めで忠興と光秀の娘・たま(ガラシャ)が結婚するほど深いゆかりがあった。光秀と藤孝はともに丹後の一色氏を討って、光秀は丹波国を、藤孝が丹後国を与えられる。藤孝はそれまでいた勝龍寺城から現在の宮津市に移った。
当初は一色氏の居城だったと言われる宮津八幡山城を本拠地としたが、海に面する現在の市街地に宮津城を築く。目の前には天橋立の絶景が広がり、天然の良質な港湾。この穏やかな地で、忠興・たま夫妻は子供にも恵まれ、藤孝は満ち足りた日々を過ごしていた。

そこに、本能寺の変。
信長を討った光秀は、宮津城に手紙を送り、藤孝に協力を要請した。これまでの絆を思えば必ず手を貸してくれるだろうと光秀は考えていたにちがいない。
でも、藤孝はこれには応じなかった。髪を剃って「幽斎(ゆうさい)」と名乗り、忠興とともに田辺城に移る。情より、現実をしっかり見据えていた。

宮津八幡山城跡から宮津城跡、天橋立を望む
宮津八幡山城跡から宮津城跡、天橋立を望む
舞鶴市 田辺城跡
舞鶴市 田辺城跡

幽斎は時代の流れを見極める目を持っていたのだろう。
このたびの反家康の動きの中でも、彼は家康についた。忠興は多くの兵を率いて家康の会津・上杉攻めに参加する。しかしそのことで、田辺城は石田三成方の軍勢に攻められることになった。
伏見城が猛攻を受けた同じ頃、田辺城もまたおよそ15,000人の敵兵に取り囲まれる。幽斎はわずか500人ほどの兵で籠城し、圧倒的な兵力の差ながら、50日あまり抵抗を続けた。
「本当は、敬愛する幽斎殿を攻めたくないんだよなあ…」
三成方には、そんな兵もいたようだ。都生まれの幽斎は、戦国大名とはいえ一流の文化人として知られ、『古今和歌集』の秘事口伝「古今伝授」の伝承者だった。
田辺城攻めを聞いてギョッとしたのは後陽成天皇。唯一の古今伝授の伝承者に死なれては困る。そこで天皇は勅使を送って講和を命じ、9月13日に田辺城は明け渡された。幽斎は丹波亀山城に移る。

たしかに幽斎は負けた。しかし彼の文化力が命を救った。さらに、幽斎がおよそ50日も敵を引きつけたため、三成方15,000人もの兵が関ヶ原の本戦に間に合わず、東軍家康の大きなアドバンテージとなったのである。
現在の田辺城跡は舞鶴公園となり、二層櫓が復興され、幽斎時代の天守台の石垣も見ることができる。園内には当初開城を拒否した幽斎が、勅使に古今伝授の秘伝書を渡した場所と伝わる一角があり、石碑がこれを顕彰している。

幽斎は助かったものの、忠興の妻・たまはどうなったか。
光秀の娘であったたまは、本来は山崎の合戦の後は生きられないはずだった。しかし夫の忠興は離縁もせず、現在の京丹後市の味土野(みどの)に幽閉した。その後、秀吉のはからいで細川家の大坂屋敷に移り、キリスト教の洗礼を受け、ガラシャを名乗る。
しかし田辺城への攻撃が始まる前日の7月17日、石田三成はガラシャを人質に取ろうと大坂屋敷に取り囲んだ。ガラシャは人質をよしとせず、死を選ぶ。
「次は違う時代に生まれますように」
そんなつぶやきがあったかどうか、家老に介錯を頼み、命を散らしている。

二条城
二条城
天下人のゆううつ

江戸城で反家康の報告を次々と耳に入れた家康は、みずからは動かず情報戦をくり広げる。8月23日、福島正則らが三成方の岐阜城を落としたという報を受け、ようやく家康は立ち上がった。
1600年9月15日関ヶ原の早朝。
東海道を上ってきた家康は、関ヶ原東方の桃配山(ももくばりやま)に陣を置く。三成は西方の笹尾山に。午前8時には両軍が激突し、しばらくは接戦が続いた。味方の誰が裏切ってもおかしくない状況で、家康の精神はかなり消耗したようだ。家康もまた、南方奥の松尾山に控えている小早川秀秋に寝返りの交渉済みだった。それなのに、小早川がなかなか動かない。督促の銃を撃ったところで、ようやく動いた。
「遅いよ。ひやひやさせるね、どうも」
汗をふきつつ、家康は勝利を手に入れた。

家康は27日に大坂城に入り、本丸にて豊臣秀頼に会見した後、西の丸で論功行賞を始める。すべて家康の独断で行われたことから、実質的に家康の天下取りはここに成った。
ただ、領地を認める書状はまだ家康の名前では出せなかったようだ。7歳の秀頼が、家康の頭上にちょこんと存在していたのである。
10月1日、敗将の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は京都の六条河原で斬り殺され、三条大橋にさらされた。

翌年、家康は大坂から伏見に再び入り、1602年には諸大名に伏見城の再建を命じた。一方、洛中での拠点となる二条城の普請も命じている。「京之城」「京都新屋敷」とも呼ばれ、朝廷とのお付き合い用のお城、という性格もあったようだ。
1603年2月12日、修築された伏見城にて、家康は征夷大将軍に任命される。朝廷からも認められた武家の棟梁、名実ともに天下人となった。
牛車でゆらり。家康はできたばかりの二条城から、将軍宣下の御礼のために参内している。

天下人・家康のモヤモヤ、それが秀頼だった。
征夷大将軍に任命されて以降、ぷつりと秀頼に臣下の礼をとることはなくなったが、その存在は家康の中にあり続けた。
伊達政宗は家康側近の茶人・今井宗薫におおむね次のように忠告している。
「秀頼は、成人してよく出来そうなら家康の判断で取り立ててもいいが、いまのように大坂にふらりとさせておいたらよくない。不埒者が秀頼を立てて謀叛をおこすよ?」
それは家康もよくわかっており、11歳の秀頼にわずか7歳の孫娘・千姫を嫁がせ、豊臣に恩顧のある大名たちの心を引き込もうとしている。
果たして秀頼は「よく出来そう」な成人となったのか。

家康の将軍在任期間はわずか2年だった。秀忠に家督を譲ると、静岡の駿府城でいわゆる大御所政治を行う。1611年、後水尾天皇の即位にあたって久々に上洛した家康は、二条城で秀頼との対面を望んだ。世にいう「二条城会見」である。
70歳の家康の前に現れたのは、19歳の秀頼。これから人生が始まるような若々しい姿に、家康は目を細める。秀頼はしっかりと家康に対し礼をとり、穏やかに2時間の会見は終わった。ただ、家康の心は激しく波打ったようだ。
3年後、秀吉が建立した方広寺大仏殿を再興するにあたって、秀頼が鋳造させた鐘の銘文に、家康はケチをつける。
「国家安康、君臣豊楽──家と康を断ち、豊臣が君主として楽しむって、何?」

1614年11月、家康は二条城を出陣して秀頼のいる大坂城へ向かう。しかしこの冬の陣では大坂城の堀を埋めるなどの条件で講和が成立した。しかし大坂で浪人たちが武器を準備しているという情報が家康の耳に入り、翌年の5月に自ら再出陣。この夏の陣では講和はなされなかった。15万の徳川軍に攻められ、大坂城は炎に包まれる。秀頼は自分の人生が始まる前に、命を絶った。

方広寺 梵鐘と銘文
方広寺 梵鐘と銘文
もう〈戦国〉は要らない
石清水八幡宮社殿
石清水八幡宮社殿
石清水八幡宮所蔵『徳川家康朱印條目』(慶長15年9月25日)
石清水八幡宮所蔵『徳川家康朱印條目』(慶長15年9月25日)

秀頼はほんとうに家康の喉笛に刃を突きつけていたか。
そうではなくても、その存在がまた「戦国」を生み出す可能性が1%でもあるなら、芽吹く前に摘まなければならなかった。大坂の陣の非情な仕打ちは後世の家康の評価を下げるものとなったが、彼にとっては天下泰平にむけた総仕上げだったのかもしれない。
豊臣を滅ぼしたのち、家康は次々と法令を出す。
すぐに出されたのは「一国一城令」。主に西国大名に出されたもので、軍事力を削るために、領地内に居城以外の城を認めないものだった。
大名たちに対しては「武家諸法度」、天皇や公家には「禁中並公家諸法度」、また寺院に対しても多くの諸法度を出している。
老いた家康はもう弓も刀も持てない。死後も残る「徳川ルール」が、家康が最後に掲げた武器だったのかもしれない。

家康のもう一つの武器は朱印状。
朱印を捺した武家の文書のことを指すが、家康も楕円の形をした朱印を用いて、主に大名や公家、社寺たちに土地の所有を認めた。
「いいか。競うな、争うな」
そう言い聞かせるかのように、家康は数多くの朱印状を発行している。
京都府八幡市の石清水八幡宮にも家康の朱印状が残される。石清水八幡宮は武運長久の神として武将たちの信仰を集め、信長は社殿にかかる黄金の雨樋を、秀吉は回廊を寄進し、あの秀頼は本殿を再建している。家康もまた八幡宮の領地を検地することを免除した。現在の社殿は三代将軍家光によって再建されたもので国宝。天下人たちがこぞって築き上げた信仰の土台の上にいまも立つ。

石清水八幡宮といえば、家康のたのしい逸話が残る。
八幡宮の社家につながる志水家にお亀の方という女性がいた。伝説によると、お亀がたらいの中で子供に水浴びをさせていたところに、伏見城に住んでいた家康の行列が通りかかった。あわてたお亀はたらいを子供ごとヨイショッと持ち上げ、そそくさと隠れたという。
「なんてパワフル……好き」
と思ったらしい家康は、丈夫な子を産んでくれると確信してお亀にプロポーズ。みごと家康の第9子となる義直を出産し、この赤子はやがて尾張徳川家の初代となった。

志水家の菩提寺だった八幡市の正法寺(しょうぼうじ)は、家康の側室となったお亀の寄進で本堂や大方丈、唐門が建てられ、現在は重要文化財に指定されている。公開日が限られているが、明治の神仏分離令によって石清水八幡宮から移された鎌倉時代の阿弥陀如来坐像など、見どころが多い。

ところで義直。尾張藩の名藩主にして柳生利厳より新陰流兵法の相伝も受けた、文武両道のキレ者。お亀を見初めた家康の目に、狂いはなかった。

正法寺
正法寺
加茂町の残念石
加茂町の残念石

豊臣を滅ぼした翌年、75歳の家康は波乱の一生を終えた。
秀忠に将軍職をゆずって10年、内政から外交まで、大御所として秀忠に天下の治め方を自らやってみせた。家康は駿府での死の床で秀忠に語る。
「このわずらいで私は果てるだろう。でもこうしてゆっくりとあなたに天下を渡すことができたのは満足だ。思い残すことはない」

この死の床への同席を許された重臣に、藤堂高虎がいる。
豊臣に仕えていたものの関ヶ原で家康方に与し、晩年の家康から大きな信頼を得ていた。
高虎がもっとも手腕を発揮したのは城造り。江戸城の修築、伏見城の再建、丹波亀山城の設計、のちに二条城も改修している。大坂夏の陣で炎上した大坂城を再建したのも高虎だった。豊臣大坂城よりはるかに高い石垣を持つこの城と、京都府木津川市加茂町にはちょっとご縁がある。

家康の死後、山城国相楽郡(京都府南部)を治めていた高虎に大坂城再建が命じられた。高虎は城の資財として領地の山から花崗岩の巨石を切り出し、木津川の水運を使って大坂に送り出していた。ところが何かの事情があって不要となった石は、そのまま河川敷に放置されることになる。大坂城の刻印が刻まれていたこともあって、後世の人々がこれに気づいた。鑿のあとも残るこの巨石群はいつしか「(使われなくて)残念石」と呼ばれるようになる。
かつては加茂町大野の河川敷にごろごろと置かれていたが、現在は近くの仮移設場所に置かれ、保存展示を目指している。
近くの常念寺は高虎が石切の指揮を執るために滞在したと伝わる場所で、それを記念して境内にも残念石の一つが置かれている。左側には藤堂藩の刻印。高虎のかけ声が聞こえてきそうな、歴史の証人である。

徳川時代の始まりの地、伏見を歩く
徳川時代の始まりの地、伏見を歩く
Access map
伏見城 模擬天守
京阪・近鉄「丹波橋駅」下車徒歩約20分

興聖寺
JR「宇治駅」下車徒歩約20分

八幡山城跡
京都丹後鉄道「宮村駅」下車徒歩約10分

田辺城跡
JR「西舞鶴駅」下車徒歩約10分

二条城
京都駅より地下鉄「二条城前駅」下車すぐ

方広寺
京都駅より市バス「博物館三十三間堂前」下車徒歩約6分

石清水八幡宮
京阪「石清水八幡宮駅」より参道ケーブル
「八幡宮山上駅」下車徒歩約5分

正法寺
京阪「石清水八幡宮駅」より京阪バス「走上り」
下車徒歩約5分

加茂町の残念石
JR「加茂駅」下車徒歩約30分

常念寺
JR「加茂駅」下車徒歩約10分

Episode
第1回
逃げろ、家康 ──本能寺の変のもう一つの物語
第2回
耐えろ、家康 ──織田大名から秀吉の臣下へ
第3回
超えろ、家康 ──ゆるゆると、天下人
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